絵本「えんとつ町のプペル」がつまらない、駄作であるたった1つの理由

2021/02/26

★0 映画ドラマ批評

すげーめちゃくちゃな本でした


寸評 ほし ☆☆☆☆☆ (0/5)

何もテーマがない。色々とテーマを匂わせつつ、結局どれも進展しない。結果読者はストレスばかりが溜まる。
これ以上つまらないストーリーは見たことない駄作。
過去の名作をつぎはぎして、全体の整合を全く取らずに完成だと言いはったような絵本。

つまらない理由

絵本の「えんとつ町のプペル」を読んだんですよ、無料で読めるから。

まぁつまらない。最高につまらない。

まずつまらない理由、たった1つです。
つまらない理由は「骨子が無い」から。

少し噛み砕いて言うと、
「語りたいテーマがとっ散らかっていて、かつ何一つ収束させないから」
です。

「テーマ」とは?

つまらない理由を事細かにボロクソいっていこうと思うんだけども、その前にちょっと前提の話から。

つまらない理由の中で「語りたいテーマ」という言葉を使ったんだよね。
この言葉について、少し補足。長くなるけど。

ラピュタにおける「テーマ」

たとえば、天空の城ラピュタ。
この物語の中に以下のようなテーマがあります。

  1. 物事をやり遂げるには、強い信念と、時には未知の世界に飛び込む勇気が大事だ、という訓話
  2. 「科学発展」を追及する現代社会は、果たして本当に「幸福」を追及する社会になれているのだろうか?という問いかけ

 これは、ストーリー展開の骨子となるべきものなんだよね。この骨子を、少しずつ進展させてるワケですよ。
逆説的に言えば、ラピュタにはこの2つに関係ない話は原則存在しない。これはかなりの極論だけど、でも原則的に必ずどっちかの骨子に絡んだ話をしてる。
ラピュタは原則的に、2つのパートに分ける事ができるのよ。

テーマ1に対応する、パズー本人の成長や頑張りを描くパート。
テーマ2に対応する、ラピュタの絶大な科学力と、それを狙う人間のパート。
ドーラ一家は少し特殊で、最初2と思わせて、最終的には1を構成する舞台に変わっていくんだけども。

ね、今思い返すと、どのシーンもテーマのどちらかに関係しているでしょう?

「テーマ」を軸にストーリーは進む

ラピュタはストーリー全体を通して、これらのテーマが少しずつ進展するの。

1により、視聴者はパズーに強く感情移入して応援する。
2により、ムスカの圧倒的な力による破滅的ストレスが視聴者にのしかかる。
この「応援」と「ストレス」が両者同時にガンガン蓄積され、もう破裂寸前って所まで高まったところで、最終的にはみんなで「バルス!」と叫んで究極のカタルシスを迎えるんだよね。

この「ストレス」と「カタルシス」の落差が大きければ大きいほど、人々に与える衝撃は大きいって事になる。

ラピュタに限らず、世の中のストーリーには「テーマ」が存在するのですよ。
そうでなければ、感情移入も無いし、ストレスも無いの。これらが無ければ、当然カタルシスの落差も無いから感動や感銘もない。

さて、前置きが長くなったんだけども、次からいよいよ「プペルにおけるテーマ」を洗い出してみようじゃないかと。

プペルにおける「テーマ」

プペルを読んでみたところ、以下のようなテーマが内在しているだろうと読み取れましたよ。

テーマなり得るモノ一覧

  1. 「夢を語ると笑われる」社会への「風刺」
    ※これは、あとがきで本人が自称している事 
  2. 人間を中身で評価しない社会への批判 
  3. 人々の規範としての、少年の素直な心 
  4. 人々の規範としての、プペルの自己犠牲の精神 
  5. 父の愛の大きさ

このどれもが「テーマ」足り得ます。
1冊の絵本にこの要素が散りばめられていました。少なくとも私にはそう読めました。

「テーマ」は進展するのか?

では、ちゃんと進展したテーマは?
答えは、1つも無い、です。
どの要素も、結局最後まで、たったの一歩も前に進まないの。逆にスゴイよね、ここまで来ると。

これってどういう時に発生する事象かって言うと……
  • 作者が作中に入れたテーマを自分で理解してない 
  • 作者にテーマを進展させるチカラが無い このどっちかしか有り得ない。
消去法的に、それしか可能性残らないんだよなぁ。

で、おそらくプペルの場合は前者
この絵本、過去の名作からエッセンスをコピペして装丁を付けただけなんだよ、たぶん。だから作者本人も、絵本の中にどんなテーマが内包されているか把握してないの。

過去の名作からエッセンス拾ってきて「要素匂わせ」だけ行ってさ。要素を匂わせておきながら、そのくせ何も進展しないもんだから読み手の心には何も残らない。
それどころか「あのテーマどうなったんだよ?」という疑問だけが残る。
結果、この絵本を読んで記憶に残るのは不快感だけ。

というわけで、この絵本はクソです。塗り絵以下です。
次から、どこがどうクソなのか詳細書いていきます。

つまらなさの詳細

というわけで、なぜつまらないのかを詳細に書いていきます。

1.「夢を語ると笑われる」社会への「風刺」

誰が、いつ、どういう夢を語ったのか?
誰も何も語ってないんだよ。

少年の夢は「ホシを見ること」という設定があるんだよね。
少年はプペルに独白のように言うんだよ。

「ぼくの父ちゃんが『ホシ』をみたんだ。ホシをみる方法をぼくにおしえてくれたんだよ」
「『信じぬくんだ。たとえひとりになっても』」

はぁ?
ホシを見てどうしたいとか、どういう風にしてホシを見るかとか、そういうのが「夢を語る」だろう?
ここで少年が何かアクションを取っている事が語られないんだよね。つまり「僕ホシが見てみたいんだよねぇ。でも別に何の努力もしてないけどねぇ」ってこと。少なくとも読み手はそう受け取る。
これは「夢」ではなく「エサを口開けて待ってる雛鳥」と一緒。夢ならば、叶えるために何かアクションしていなきゃストーリーにならない。
けど、少年は何も努力してない。

これ、何かのテーマ足りうるか? ただの怠惰な人間像だろ。まったくテーマとして機能していない。

で、驚くことに、このストーリーには「ホシを見ること」以外に「夢」と言えるような物事は登場してこない。

えぇ……。なんで作者は堂々と「夢を語る」なんて言い出せたんや……。いったい全体、どこで夢を語ってるんや……。
まったくもって意味不明。
怠惰な少年が「信じてればホシ見れるらしいから、見れるかなぁ」って待ってるだけ。

こんなんじゃ、テーマになってねぇわ。

2.人間を中身で評価しない社会への批判

なんか、これは「うっすら感じ取れた」というだけなんだけどさ。

絵本の冒頭ですよ。ハロウィンを楽しんでいる仮装した子供たちがいてね。
で、この子供たちはプペルのことを「仮装」だと思って、仲良く遊んでたのよ。
だけど、最終的にプペルが仮装ではなくゴミ人間だと分かると突然態度を翻して「あっちへいけバケモノ!」と拒絶される、ってカンジで話が流れていくんだけれども。

このくだり、なんと 6 ページも使ってんだよ。
全体で 41 ページの絵本のうち、 6 ページ使うの。全体の 15% を使うの。
それだけ消費して、うっすらと「中身だけなら仲良くしていたのに、外見なり出自なりで差別し拒絶する」というテーマを滲ませておきながら、その後「人間、外見で判断してはいけないよ」的な話は無いの。

えぇ……。じゃ、全体の 15% も使ってにじませたこのテーマ、一体なんだったの……。

っていうかさ、プペルはゴミ人間で臭くて汚いのね。
臭くて汚いゴミ人間が嫌われるのは、当然だよなぁ?
差別ではなく、原因が明確じゃん。

なんかさぁ、このテーマにページ割いたんならさぁ「一度レッテル貼られたら、差別され続ける」という展開しない? 普通さ。
最初は臭くて汚かったプペルが、におわないしキレイになりました! でも結局差別され続けます、っていうさ。「差別」というテーマならば「いわれなき」という要素を入れていなかければテーマ足りえない。
だから全体の 15% も使ったのに、丸ごとその部分は無駄だったよね。無い方が良かった。

つまり、こんなんじゃテーマになってねぇわ。

3.人々の規範としての、少年の素直な心

あのねぇ、主人公の少年はなんかイイヤツ風に語られてるんだよ。
たとえば「ゴミ人間のプペルと遊んでくれるのは、少年だけです」とかさ。

だけど、その少年がさ、周囲から「プペルと遊ぶならお前もハブにするぞ」って言われて、それならプペル見捨てる事にしますって決めるのね。
「……またくさくなってるじゃないか。そのせいで、ぼくはきょう、学校でイジメられたんだ。いくら洗ってもくさくなるキミの体のせいで!」
「もうキミとは会えないよ。もうキミとはあそばない」
こんなセリフを投げつけて、絶交するわけですよ。

あのさぁ、なんていうか「同調圧力に負けたかわいそうな少年」という構図にしたかったのかもしらんけどさ、無理よ。
こんな事言っちゃーさ、もともと我慢して付き合ってたような解釈できるじゃん。「ゴミ人間と優しく遊んであげている俺って最高にクール」みたいな、そういう人間に見えちゃうじゃん。
で、結局イジメに加担することになるわけでしょ。イジメを主導はしていないかもしれないけど、一緒になって無視するんだったら「加担」はしてるよね。なので 2 割とか 3 割ぐらいは責任あるよね。

少年の素直な心を描きたいという空気が最初あったのにも関わらず、途中から「弱者を自分美化のために使うクソ野郎」「自己保身のためにイジメに加担するクソ野郎」「なにもイジメ問題に対処しようとせず、黙認するクソ野郎」という描写になっていく。
この少年、クソ野郎なんだよね。
だとすると、最初に「少年とプペルが仲良く遊びました」の部分は丸ごと無駄だったよね。無い方が良かった。

つまり、こんなんじゃテーマになってねぇわ。

4.人々の規範としての、プペルの自己犠牲の精神

プペルが毎日臭くなるのには理由があったんだよ。
少年が失くしたと言っていた父の写真が入ったペンダントを、ゴミ山の中から探していたからなんだってさ。

うーん、なんという自己犠牲の精神!
イジメを受けてハブにされてもなお、少年のペンダントを探し続けて、ついにある日ペンダントを見つけるのだ! なんという高尚さ!

……うーん、そうですかねぇ? なんで少年に黙って探し続ける必要がありますか?
「言っちゃうと、少年も一緒に探すと言い出すから言わなかった」という解釈も成り立つけど、そうなると今度は「キミがくさくなったせいで学校でイジメられたじゃないか!」という少年のセリフを聞いて、なんのレスポンスも返さないのはおかしい。
そもそも、少年にだまって毎日まいにちゴミ山を探し、くさくなっては毎日少年に体を洗わせていたワケなんだけども。それって、本当に美談かい? 奉公かい? 少年側からすりゃありがた迷惑な気もするんだが。

そもそも、ここまで極端な自己犠牲の精神は現代社会のセンスにかみ合わない。昭和のモーレツ社員のような「滅私奉公」のセンスに近い。
自分のことはどうでもいいから、という自殺的奉仕は不快感すらある。

さらにさらに、実はペンダントは自分の頭脳になっていたから、これを引きちぎって返します。プペル本人は死にますけどね、っていう選択肢を取ろうとするんだよ。
いやいやいや、もうさ、ありがた迷惑を超えてすごい共依存じゃん。 DV 夫に貢ぎ続ける妻みたいな事になってるじゃん。
もうね、ここまできたら精神的に相当イカれてるって思っちゃうワケよ。あまりの狂人ムーブに読んでいるコチラはまったく感情移入できない。

あのね、なんというか、必然性のある自己犠牲に人は涙するわけです。アルマゲドンで人類のために死にます、って時は泣けるでしょう。
それなのにプペルは、もともとありがた迷惑で、不快な自殺的奉仕をしていて、最後に極めつけにあなた個人の思い出のために自分が死にます、って言い出すんだよ。

もうね、気色悪いでしょ。
だれもこんな状況望まないでしょ。
不快、ただただ不快なシチュエーションなのね。

つまり、こんなんじゃテーマになってねぇわ。

5.父の愛の大きさ

最後、取って付けたように「父の愛によって、あの世から現世に『ゴミ人間』の形を借りて会いに来たんだよ」という話が出てくる。
最後の 3 ページだけ。それまで、まったくプペルに父の要素は無い。また、生前の父がいかに愛情深かったのかの描写もない。
それで、何の伏線もなく突然「プペルが実は父でした」と言われてごらんよ。
「なんで突然そんな話がでてくるんだ……?」って読者は混乱するでしょ。

しかも、そうなると「あれ、プペルって魔法使いの配達員のミスから生まれたっていう描写があったよな……?」という混乱がさらに続く。
え、じゃ父が会いに来たっていうよりは、ただ偶然……? 配達員のミスから、奇跡的に父のペンダントの上に心臓が落下したってことか?
いや、まてまて、そうなると最後 3 ページのセリフと矛盾する。
「ハロウィンは死んだひとの魂がかえってくる日だったね」
「会いにきてくれたんだね、父ちゃん」
死んだ人の魂がかえってきている、という話でしょ。だから父の愛の深さで現世とあの世という深い谷を越えてきた、という事になるんでしょ。

うーん、心臓が落下する偶然と、魂が帰ってきたの矛盾をどう解消すればいいのか……。
「父の霊魂が、配達員から心臓を落下させ、さらに奇跡的にペンダントの上に落下するように誘導した」ということだろうか? ずいぶんと遠回りな事をするね……。そんなサイコキネシスがあるなら、そもそもゴミ山の中からペンダントをバーンと弾き飛ばして少年の見つけやすいところに出してやればいいのでは……。

うーん、ナゾだ。どうしてこうなったのか、理由が良く分からない。

というように、読者は混乱の真っただ中。そんな混乱の中、唐突に話は終わる。
これ、要するに「父の愛」について、まったくフォーカスできていないってこと。読者に何も伝わらない。そもそも描けていない。

つまり、こんなんじゃテーマになってねぇわ。

6. 適当すぎる設定

隔絶世界のはずでは

この本ね、文字かなり多いんですよ。そんで 41 ページもあるんですよ。
そこから考えるに、小学生以上じゃなきゃ読めないと思うんですよね。
で、そうなると、根本の設定に矛盾があったらいけないんですよね。子供ナメちゃいけません。ちゃんと違和感伝わりますよ。

ま、何が言いたいかっていうと「4000メートルの崖にかこまれ、そとの世界を知らない町」と書いた次のページに「町はいま、ハロウィンまつりのまっただなか」なんて書いちゃいけません!
なんでキリスト教のまつりであるハロウィンが伝播してんだっつーの。おかしいだろ。

「閉ざされた社会」「国際化しない社会」を暗に匂わせるための「崖で隔絶された」設定なのね。だから、そこに単純な矛盾があってはならないの。
メッセージが弱まるから。

なのにハロウィンって。ハロウィンって! 必要ないのに!!
まったく無用な設定を入れて、いきなり最初から矛盾を抱えてしまった。

なぜ町の人は父の言う事を信じないのか

作中で「ホシがあるって父が言っても、誰も信じてくれない」と書かれているのね。
で、これは前述のとおり主人公の少年の「ホシを見たいなぁ」って話につながり、最終的にプペルと 2 人でホシを見に行くって事になるんだけどさ。
一番多くのページでホシについて触れているので、たぶんこれがメインストーリーのつもりなんだろう。

だけどさ、すごい疑問なんだけどさ。
なんで町の人は、父の言う事を信じないの?

「町でただひとりの漁師だったルビッチ(主人公の少年)のお父さん」という記述があるの。
で、その唯一の漁師が海に出た時に「空にはホシがあったぞ」と教えてくれたんだよね、町の人に。
でも、なぜかこの町の人は父の話を信じなかったんだってさ。
なぜ? その理由が全く描かれないの。すっごく不自然。

いろいろと考えた結果、理由は以下 2 点のうちのいずれかしか無いと思うんだよね。

  1. 父がみんなから嫌われていた
  2. もともと父は大ぼら吹きで有名だった

1.について補足。
「この町では、海には魔物がいると信じられていて、海にでることを禁止されていた」と書かれているの。だから単純に嫌われていたのかもしれない。
でもさぁ、それだとしたら「ホシがあるという事を信じてくれないんだ」ってことをクヨクヨするんじゃなくて「みんなから嫌われていて話を聞いてくれないんだ」という話してほしいよな。
町の人はホシの有無を争っていたわけじゃなくて、嫌いなヤツの話を聞きたくなかっただけ。
だからさ、ことさらにホシのことだけを取り上げていくの不自然だよね。ホシの有無なんか誰も争ってないのに、少年だけがこだわってホシを見たがってる。
うーん、間抜けな話だなぁ。

2.について補足。
この父は「漁師」として生計立てているわけでしょ。つまり父が取った魚をみんな買ってたってことだよね。
町で唯一の漁師ということは、魚市場は存在しない。ということは、この父が売り歩いていたか、そもそも売店が大量に買ってくれていたか。
それって、そんなに嫌われていないのでは……? 本当に町の人が掟を大事にするなら、魚を買わなければいいだけ。それで漁師は生計たたなくなる。
みんな買った魚食べてさ、それで嫌われてたから聞く耳持たないってのはなかなか無理あるかなぁと。崖に囲まれた町では貴重な栄養源だっただろうし。

というわけで、嫌われていないのに「ホシがある」というのを信じない理由を考えてみたの。
そうしたら「父が大ぼら吹きだった」という理由以外には何も思いつかなかった。
だから「ウソツキ呼ばわりされたまま死んじゃった」とか言ってるけど、そもそも方々で大ぼら吹きまくってたんだから当たり前だろ、いい加減にしろ、ってことになっちゃう。

つまり、どっちが本当だとしても「少年が間抜け」ということだけが確定する。

まとめ

どうですか。
理論的にボロクソ言ってみました。あいまいな叩きではなく、ドコがどうしてダメなのかたくさん列挙できたと思います。
もしみなさんが絵本プペルを叩きたい場合、ここに書いたことを参考にしてみてください。きっと反論は出てこないでしょう。

 

あ、ちなみに「無料なんだから」は全く擁護になりません。あれはただのマーケティングです。無料公開して実物買わせる商法で、実際成功してます。儲かってます。

あと「崖による隔絶世界なのに海があるの?」という点は問題点とは思っていません。
「崖と海で隔たれている」と読み替えれば大きな矛盾とはならないからです。
ストーリーの骨子とは関係ない、細かい矛盾と言っていいでしょうね。

これぐらいは、まぁ他のストーリーでもありえますよ。目をつぶっていいレベルの話だと思います。

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